※ちょっと未来の、ユメコちゃんのお話です













あんなに頻繁に通っていたあの森へ、行かなくなったのはいつのころから。





学校の勉強が難しくなって、部活が忙しくなって、友達付き合いが増えて。





いつのまにかあの森へ足がのびなくなって、不思議なものに遭うこともなくなって。





それでもまだ、あの森へ、彼のところへ、行けると信じていた。





綺羅星




薄暗く朽ちた社に続く石段に腰をおろし、ほう、と息を吐く。
見下ろした光は火の灯すそれよりも強く鮮やかで、薄暗いこことはちがい暑そうに見えた。
実際人の混みあった色とりどりの屋台を連ねるその道は蒸し暑く、休息を求めてここに来たのだけれど。
薄い浴衣越しの石段はひんやりとしていて、静かな虫の声と、星の瞬く暗闇が相まって、空気が夏のそれとは思えないほど冷たく感じた。
振り向けば奥に奥に暗くなる森、ぽつんと建つ社が、どこかぞくりとする光景で、思わず膝の浴衣を握りしめた。


…怖いな、


そう呟きそうになって、はっとして頭をふる。
何を言っているだろう。あの森の奥にあるもの、闇をはらむ存在、そしてそこから救い出してくれるヒーローを、私は知っているのに。


何を今更、おそれるものと、


(ユメコちゃん。)


カラン、と下駄の音が響いて、どきりと肩を震わす。
カラン、コロンと音は石段を昇り近づいてくる。
どきどきと心臓がなる。カァ、とどこかで烏が鳴いた。
あの森に行けばいつでも会える。いつでも、笑顔で迎えてくれて、名前を呼んで、


「天童。」


顔をあげれば、そこにいたのは茶の癖のある髪をした隻眼の少年などではなく、黒髪を揺らし肩で息をした同じクラスの男の子だった。
足元を見れば、白の鼻緒が通された下駄。
思わず息を飲んだけれど、相手はそれに気づかずカランコロンと音をたてながら近づいてきた。


「急にいなくなんなよ、びっくりすんだろ。」


はぁ、と息を吐いて、腰に両手をあて私を見下ろす。語調は強いものだったが、表情は呆れと安堵の混じったものだった。私は彼の、濃紺の甚平を見つめた。


「天童?」


筋肉のついた、焼けた足は長く伸び、それはもはや、少年期を過ぎたもので。彼の肩向こうに、祭の明かりがちかちかと光っている。


「ほら。」


伸ばされた、大きくて、ごつごつとした掌。思わず手を伸ばせば、彼のそれに比べれば小さな自分の手、指先のベビーピンクにどきり、とした。


「なんかさぁ。」


貼りついたように冷たいお尻の埃をはたきながら歩くと、手前を歩く彼が呟いた。


「静かでいいけど、お化けでもでそうだよなぁ。」


カラン、と下駄の音が響く。近づいてくる賑やかな明かりに、どこかほっとする。
握られた手はあつく熱を持っているようで、心強い。


「…そうね、私も、」


こわかったわ。


はっとして顔をあげると、目の前の彼はそうだよなぁ、と笑った。屋台の安っぽい豆電球の光が、彼の顔を照らしていた。


優しく力強い、冷たい掌。真っ直ぐ見つめてくる、片方の目。一緒に笑いあったあの女の子も、闇をはらむ、あの森の奥。


「早くみんなのところに行こうぜ。」


手を引かれて歩き出せば、カラコロといたるところから下駄の音が聞こえてきた。
ああ、こんなに近くで、たくさんのひとが鳴らしていたのね。
賑やかな明かりに安心した私は、肺一杯に空気を吸い込んだ。
熱気の圧迫感と、おいしそうな屋台の匂い。浴衣に貼りついていた冷気が温くなり、熱くなった。


あの森には、きっともう行けない。指先のベビーピンクも、伸びた手足も、闇に身震いする思いも、すべて。
私はいつしか大人になって、夢は姿を変え幼さを置いていった。
大好きだった。大好きだった、けれど。


私の横を、青の浴衣と赤の浴衣がすり抜けた。
それはまばゆいようで、けれど錆色をまとう。
繋がれた手と手が揺れて、小さなふたつの足音がカラコロと響いた。
クスクスと、笑い声がだんだんと遠くなるのを、私は真っ直ぐ前を見て聞いていた。


見上げた空の上には、地上の光に眩まされ僅かに光る星々。
あんなに輝いていたあの星は、もう私のもとには落ちてはこない。


(さよなら、)


過ぎ行く人々のざわめきのなか、私の小さな呟きは、光と暑さに蒸されて夜空に遠く、消えていった。