拝啓、イリア・アニーミ様




ぼちゃん。いや実際はそこまで勢いよくしてないけれど。もう何度目かもわからない、ガラスペンの先をインク壺につっこんで、僕はうんうん唸ってる。


拝啓、イリア・アニーミ様


真っ白い紙に線が引いてあるだけのシンプルな便箋には、たったそれだけ。たぶん5分くらい前に、僕が書いた。簡略された挨拶と、彼女の名前。たったそれだけで、僕の手は止まってしまった。何度も何度も続きを書こうとペンを握りなおすのに、便箋はただ真っ白く、ずらりと引かれた線に物怖じして、インクをつける気が起きない。


「ああ、もうっ!」


苛立ちのようなもやもやとした気持ちが抑え切れなくなって、とうとう僕はペンを置いて立ち上がった。あんまり勢いよく立ちあがってしまったものだから、椅子がそのまま後ろに倒れて、ガコーンとかけっこうすごい音がした。僕は慌てて椅子を起こして、どうしたの、と階下から叫んできた母さんに、なんでもないよ、と叫び返した。
こっちにびっくりしてしまって、本来発散すべきだったさっきのもやもやがなくなってしまっていることに気づいて、なんだかおかしくて笑ってしまった。


拝啓、イリア・アニーミ様


僕の、スパーダいわく微妙にヘタな字が並んでいる。机の上、あの便箋のなか。
僕は小さく唸って、ごろりと床に仰向けに寝っ転がって、腹の底がへこむような、細く長いため息を吐いた。
次に書くべき言葉は、僕の頭のなかに散らばっていて、なんだかこう、ぐるぐるしてる。けっこうな速さで。だから僕はそれをまだ掴めずにいる。いつだったか、しゃべらなきゃしゃべらなきゃって、焦ってたときみたいだ。書かなきゃ書かなきゃって、そうやって頭の中がこんがらがていく。
書きたいことがあって、彼女に言いたい、聞いてほしいことがあって、だから手紙を書こうと思ったのに、そのときのどきどきした気持ちがなんだかしぼんでいくようで、少しかなしくなった。


(例えば前より運動が苦手ではなくなったこと、案外ケンカもできたこと、遅れを取り戻すために勉強が大変なこと。まだ、将来に迷っていること。僕が、僕が…、)


ひとつひとつは僕にとってはすごく重大で、けれどそれらはふわりと軽く、これを書こうこれを書こうと思っているうちに消えてしまうんだ。だから言葉がちぐはぐになって、ぼろぼろになって、やっぱりぐるぐるまわってしまう。
机の目の前の窓の外は晴れやかで、薄青の高い空に綿のような雲が浮かんでいて。あんなにすっきりしているに、僕の頭の中はなんでこうぐちゃぐちゃなんだろう。だってそうだろう、あんなにきれいな空が、どこまでも続いていて、遠い彼女のところまで。おんなじ美しさがあるんだって、だって、そうだろう、


(…あ、)


唐突に頭にひらめいた言葉に、僕はがばりと身を起こした。
その言葉はぐちゃぐちゃぐるぐるしていた僕の頭の中で、ぴたりとその場にとどまって、強い光を放っている。僕はきらきらと埃の舞う、机の上を見た。まっ白い便箋が、ほのかに光っているように見える。
僕は椅子に座って、ペンを手に取った。インク壺にひたして、そうっと便箋の上まで持ってくる。なんだかじれったいような、でもゆっくり大事にやりたいような、そんな感じがして、僕は思わず口元を緩めた。なんだかどきどきする。字が崩れないか心配だ。軽く息を吸って、吐いた。


(僕は、がんばってるよ。ねぇ、イリアはどう?)


真っ白かった便箋に、インクがしみ込む。いちど綺麗につながってしまえば、それはもうとどめようもなく。また君に、怒られなきゃいいけれど。それすらなんだか嬉しくて、どきどきして、わくわくする。僕のそういう気持ちが、あの、同じすっきりと美しい空の下にいる彼女に届けばいいと、思った。