ひとさわがせな



風呂敷包みを両手で大切に持って、猫娘がひょこりと鬼太郎の家に遊びに来た。
お正月。見事な晴天に気分は良く、少しばかりうかれ気味な猫娘は、まず自分の身形(みなり)を軽くチェックした。橘の濃淡の重色目の真新しい着物は、去年砂かけ婆が猫娘の為に新調してくれたものだ。小花の散った紅い帯も女性らしく、着物の中には匂い袋をそっと忍ばせている。頭を飾るリボンも正月用にアレンジを加え、すっかり見違えた「綺麗なお姉さん」のようだった。
「鬼太郎さぁん!」
高い木の上にある鬼太郎宅に向かって、猫娘は声をかけた。しかし、いくら待ってもいつもなら顔を出す筈の鬼太郎が現れない。
「留守なのかしら」
猫娘は首を傾げた。
折角のお正月だというのに、もしかして妖怪ポストの依頼でも届いて、出掛けちゃったのかしら。猫娘はそんな事を思いながら、少々つまらなさそうに紅を注(さ)した唇を尖らせた。
「仕方無いわねぇ」
と、着物の裾を捲り白い腓を出して、片手に風呂敷包みを持ち直して、誰にも見られていない事を改めて確認した後、素早く梯子を登った。
「あたしにこんな事をさせる鬼太郎さんたらっ」
――いない者への言い掛かりである。
猫娘はぶつぶつ文句を言いながら、着物の裾を直し、家の中に入った。
「うっ?」
途端、周囲に漂う酒気が猫娘を襲った。口許を抑え、猫娘は狭い部屋を見回す。――居た。酒気の根源。
灰色のボロ布が寝そべっている。その近くには日本酒の瓶が転がっており、一部は床にこぼれて染みている。灰色のボロ布は気持ち良さそうに高鼾(たかいびき)をかいていた。
猫娘の目の下に、さっと黒翳が走る。風呂敷包みを近くのちゃぶ台に置き、静かに静かに歩を進める。その、綺麗に飾り立ててある爪が、すうっと伸びた。
「ねぇずぅみぃ男!!!」
猫娘は怒声と共に爪を一閃させた。
「ぎゃあああああ!?」
熟眠中のねずみ男が突然の引っ掻き攻撃に覚醒する。飛び跳ねるように目を覚まし、半眼のまま酒やけした顔で周囲を見回した。
腕を組み、見下ろしている猫娘と、目が合った。
「な、何だよ猫娘。ひとが折角いい気分で寝てる所を……」
「そのまま永遠に眠らせてあげましょうか?」
冷やかなまま、言い放つ。「あんたは何をやってるのよ!」
猫娘の人差し指が、ついっとねずみ男の鼻先を指した。爪がまだ伸びたままのそれを見て、ねずみ男は慌てて後ろへ下がった。
「否、別に酒呑んでただけでしょ」
「鬼太郎さん家で呑まなくてもどこか別の所で呑めばいいじゃない」
「これは只の酒じゃないの! 正月名物御屠蘇(おとそ)って奴なのよっ!」
ねずみ男が絡み気味に反論する。しかし、猫娘は冷たい一瞥をねずみ男に向けていた。
――正月の御屠蘇は、本来は日本酒とは違う。邪気を払う為の、昔の中国から伝わった薬酒である。猫娘はそんな事を思い出しながら、転がっている日本酒の瓶を見回した。正月と称して酒を呑んでいるとしか見えないが、祝いの気持ちがあるのは本当なのだろう。猫娘は少しだけ怒気を収めた。
「もう……仕方無いわね。ちゃんと瓶を片付けて頂戴」
「分かってますって、小猫ちゃん!」
猫娘の機嫌が和らいだのを見て、ねずみ男はいそいそと空瓶を片付け始めた。それを見ながら猫娘は簾を開け、窓を全開にし、部屋中の空気の入れ替えを行った。
「所でよぉ、猫娘」
ねずみ男が、ちらちらと猫娘が持ってきた風呂敷包みを盗み見ている。
「何?」
「その包みの中身、何なのよ?」
「これ?」
猫娘は、ぽん、と風呂敷包みを叩いた。得意そうにニッコリ笑う。
「おばばと一緒に作ったおせち料理よ」
「おせちぃ!?」
ねずみ男の声が一オクターブ上がる。
「ええ。鬼太郎さんにおすそ分けをと思ってね」
そう言った後、猫娘ははっと気付く。これは、ねずみ男に話す内容じゃなかった! 絶対……絶対、こいつ欲しがるっ。
後悔先立たず。ねずみ男は目を輝かせておせち料理の包みを凝視していた。口はだらしなく開かれ、口端からは流涎(よだれ)が糸を引いている。見苦しい、と猫娘は顔をしかめた。
「ねぇ、猫娘ちゃん?」
「駄目っ! 絶対に駄目っ!」
猫娘はさっと風呂敷包みを取り上げ、ねずみ男を威嚇した。しかし、目の前の食欲に勝るものは何も無く、猫娘のつり上がった目でさえも、何故か可愛く見えるものだから不思議だ。
ねずみ男に不意にムクムクと悪戯心が湧く。
ごそごそと、ねずみ男は日本酒の瓶の山の近くから何かの小箱を取り出した。猫娘は気付いていない。
「そんな事言わないでさぁ……」
「これは鬼太郎さんにあげるものなの! あんたにあげるものなんて何も無いんだから!」
「そんな冷たい事言わないでよぉ」
「駄目だって言ってるでしょおっ! ……むぐっ?」
猫娘が大きく口を開けて叫んだ。その瞬間にねずみ男は猫娘の口の中に何かを投げ入れた。猫娘の目が白黒した。
甘い香りが口に広がり、歯を立てると軟らかく刺さり、中からじんわりとやや粘液状の液体が溢れ……。


やべっ。もう帰ってきやがった! ねずみ男は焦った。
「おや。ねずみ男、来てたのか?」
漸(ようや)く帰宅した鬼太郎は、部屋の中にねずみ男が居るのを確認して、そう言った。何故か怪我をして、バツが悪そうに笑うねずみ男の近くには、喰い散らかしたようなお重の跡……。猫娘が持ってきたおせち料理の残骸だ。傍には両手をついて項垂れている着物姿の猫娘。
鬼太郎の隻眼が地獄の炎の灯ったように底光りする。猫娘がねずみ男を睨みつけた眼差しとは段違いな迫力がある。
目玉親父が鬼太郎の肩からひょいと降り、荒らされたお重を残念そうに見る。
「酷いではないか、ねずみ男! わし等の楽しみを台無しにしおってっ!」
きっと目玉親父はねずみ男を睨みつけ、そのひげに取りついた。ねずみ男の立派なひげをがしりと掴んで、ぐいぐいと引っ張り上げた。
「いてっ。いてぇよ、親父さん。勘弁してくれよ」
「いいや、駄目じゃ」
ねずみ男が泣き声をあげながら謝る。目玉親父は二、三本ねずみ男のひげを抜いた後、ちゃぶ台へ戻った。ひげを抜かれた痛みに、ねずみ男は両手で口許を覆った。その目に、情けなくも涙が滲んでいる。
「お前……何をやったんだ?」
ねずみ男の様子等お構いなしに威圧的なまま、鬼太郎が低く言った。
「おっ、おりゃあ何もやってねぇよ。猫娘がおせち御馳走してくれるって言ったからさ……」
「ばーか。猫娘の様子見たら、お前の下手な嘘なんかバレちまうぞ」
「ほっ……」
『本当だってば』と、言いかけたが、それが鬼太郎の言う通り全くの出鱈目(でたらめ)である事と、黒々とした鬼太郎の背後に渦巻く見えない何かが見えたような気がして、珍しく良心の呵責に苛(さいな)まれたねずみ男は、言葉をごくりと飲み込んだ。
蛇に睨まれた蛙のようなねずみ男を放っておいて、鬼太郎は項垂れている猫娘に近寄った。
「猫娘……猫ちゃん」
出来るだけ優しく声をかける。
「んにゃ……鬼太郎さぁん」
甘ったるい声。ゆっくり顔をあげた猫娘は――ゾクリとする程、別人の如き煽情的(せんじょうてき)な眼差しで鬼太郎を見上げた。
焦点の定まらない半眼の濡れた瞳は切なく揺れ、首筋まで春めいた薄桃色に輝き、目許が牡丹の花のように艶やかに映える。うっすらと開いた小さな口は紅が注され、熱い息が漏れている。やや肌蹴かけている衿元から覗かれる鎖骨の細さ、割れた裾から見える赤地の長襦袢と皎(しろ)い内腿――誘っているとしか、思えない。
「ね、猫娘……」
ねずみ男に向けた腹黒い視線とは真逆な程、鬼太郎の目には動揺と照れが生まれ、滅多になく頬が真っ赤になった。
猫娘のたおやかな腕がぬっと伸びる。袖口から現れたそれも、ほんのり色付いて、鬼太郎の首筋と肩に絡み付いた。鼻腔をくすぐる猫娘の匂いに微かな酒の匂いが混じっているのを、鬼太郎はやっと気付いた。
「ねずみ男! お前、猫娘に呑ませたのかっ!?」
赤い顔のままの鬼太郎が、ねずみ男に向かって言った。
「まっ、まさかっ。俺が食べさせたのはこれだこれっ!」
言い訳をするように、ねずみ男は鬼太郎に小箱を投げ渡した。鬼太郎はそれを受け取ると、呆然とした。
「ちょこれーと?」
箱にはアルコールが3%程含まれている、と書いてある。よくよく見ると、中身は空だ。
「まさか、これを全部猫娘が……?」
「そうだよぉ。俺は、カリカリしてやがるから血糖値が下がってるんじゃねぇかと思ってよ、ひと粒だけ食べさせてやったのよ。……ま、あ、面白半分であったけどよ。そしたらこいつ全部食った後、急にトラになりやがって……」
“その時”の様子を思い出したのだろう。ねずみ男は蒼くなってガタガタと震えだした。怪我も、恐らく“その時”のものだろう。ねずみ男の恐がりっぷりを見ただけで、一体何が起きたのか……鬼太郎にはよく伝わった。
たかがチョコレート菓子ひと箱だが、普段からアルコールに慣れている訳ではなく、酒には弱い方の猫娘。すっかり泥酔してしまったらしい。
「猫娘……、大丈夫かい? お水、飲む?」
鬼太郎は猫娘を労わるように声をかけた。耳許で囁かれるように聞こえる鬼太郎の声に反応して、猫娘の肩がぴくりと跳ねた。
猫娘の手が、鬼太郎を撫でるように、すうっと動いた。
「いっ……!?」
鬼太郎が驚いて身を引こうとしたが、少し上体を反らせただけで、動けなかった。――猫娘の爪が、鬼太郎の二の腕にがっしり突き刺さっていた。
ねずみ男も目玉親父も、その光景に硬直した。
「猫ちゃん、痛いから! 爪っ爪っ!」
鬼太郎が慌てて訴えるが、猫娘の爪は引っ込む所か逆に喰い込んでくる。仔猫が遊び甘えながら爪を立てるのとは訳が違う。
猫娘の顔がゆっくりあがり、鬼太郎の鼻先まで近付いた。少し顔を傾ければキスが出来そうな距離だ。だが、猫娘はそれを望んでいなかった。その証拠に、じっと鬼太郎を見つめるその花顔は……。
「鬼太郎さん。アタイ、前から言いたかった事があるんだ」
はすっぱでありながらどこか艶っぽい響きを含む声。
今、猫娘、自分の事、「アタイ」って……言った?
「猫又の事件の時、アタイに向かって毛針、かましてくれたよねぇ……」
半眼の潤んだ瞳の瞳孔が縦に伸び、静かにつり上がってゆく。
「アタイのおしりに刺さった毛針、痛かったんだからぁ……」
「ね、猫……ちゃん……」
「ううん。分かってる。あれは、依頼人の男を守る為、だったんだよねぇ。でもさぁ、あぁんなバイオレンス、ないよねぇ、フツー」
匂ってくる程色っぽく、嫣然と首を横に振った後に鬼太郎を見つめたその目は、鋭さ二割増で、煌々と光っていた。
「それにぃ」
猫娘の台詞は続く。「アタイの知らない所で、人間の少女にちょっかいを出したんだってぇ? 誰だったかしらぁ。確かハナコちゃんだったかハルコちゃんだったか、ま、名前なんて今更どうでもいい事だけどさぁ」
「え……」
鬼太郎の脳裏に、妖怪いやみのイロ気を思いっきり吸い込んで我を忘れた苦い過去がありありと蘇る。鬼太郎の顔から、さっと血の気が引いた。
「そぉんなに、その人間の少女は魅力的だったんだ? アタイなんかよりも、ずーっとずうーっと!」
猫娘の口許、笑みを浮かべているように口端が緩やかに上がっているが、それは横にも大きく開かれ、鋭い牙がキラリと光る。
「猫娘、僕の話を聞い……」
「親父さんにまで、酷い事を言ったんだってね。アタイや親父さんより、人間の少女の方が、いいんだねぇ……!」
猫娘の咽喉(のど)の奥から威嚇のような音が漏れ、剥き出しの感情はとても冷たい。まるで、霜や雪の女神「青女(せいじょ)」の如き迫力が猫娘から痛い程伝わる。本気で……イタイ。
鬼太郎は、全ての思考の一旦停止を無意識下で行ったように、何も、言えない。
「猫娘や。あれはな……」
流石に息子が哀れに思う目玉親父は、猫娘の剣幕に恐る恐る言い訳をしようとする。が、頭にすっかり血が上っている猫娘の中から吹き荒れる吹雪には、どうあがいても、勝てる気がしない。
「鬼太郎さんにとって、アタイは何なのさぁ」
いつ止むとも知れないと思われた吹雪が、急に静まった。
猫娘の声の調子が、落ちた。頼りなげで泣きそうな声になり、鬼太郎の腕に立てていた爪の力も、緩んだ。 彼女の変化に、鬼太郎は漸(ようや)く思考を取り戻した。猫娘の身体を軽く揺すると、その両腕がぱたんと鬼太郎の腕から離れて落ちる。猫娘の爪から解放された学童服の袖には、それは見事な穴が開いていた。猫娘の頭が鬼太郎の肩に乗りかかり、そのまま動かなくなった。
「ねえ?」
そっとゆすってみると、鬼太郎の耳にくうくうと可愛らしい寝息が聞こえてくる。
「眠っ……ちゃった?」
「全くひとさわがせな小猫だねぇ」
一気に酔いが回って眠りに入ってしまった猫娘の姿に、やっと人心地ついたねずみ男は大げさに溜息を吐いた。
うっすらと浮かべた涙がつうっと流れる。猫娘のそんな寝顔を見ながら、鬼太郎は考えた。
父に向かって言い放った爆弾発言も、人間の少女にあり得ない程執着した事も、猫娘には一言もしゃべっていない筈だ。そう、一言も! なのに、何故知っている……。鬼太郎の隻眼が、その場に居合わせたもう一人のイロ気の犠牲者――ねずみ男を睨みつける。前髪がはらりと動き、黒い翳を作る。
「――ねずみ男。お前とは沢山話し合わなければならないな……」
……俺、睨み殺されるんじゃねぇか……。
自分のしでかしたちょっとした悪戯――アルコールの含んだチョコレート菓子を食べさせる――の顛末(てんまつ)が、自分の寿命を確実に縮めた事を、ねずみ男は心底悟った。
――尤(もっと)も、既に三百年はゆうに生きている彼であるが。

<fin>


「風と花びら〜妖怪奇譚〜」の大和さまの素敵企画より、フリーだったものをもらってきましたvv
酒乱猫ちゃんと、あわあわ野沢ちゃん。
立場逆転で、おもしろくもせつないお話、惚れぼれしてしまいます^^
大和さまの2期のお話、大好きなのですvv
そしてねずみ男…とってもいい味、だしてます(笑)
大和さまの2期のお話、大好きですvv

大和さま、ありがとうございました!

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